【第13章】変身願望
咲希と倉田との「秘密の打ち合わせ」は、それから幾度も重なることになった。
「新しい事実がわかった」「彼の携帯を調べてみてくれないか」「彼のPCのここを見て欲しいんだ」――。言葉巧みに、さまざまな理由をつけては咲希を呼び出す倉田。夫に黙って他の男性と密会することに、咲希は並々ならぬ違和感と罪悪感を感じていたが、彼女のそうした感情は「すべては君たちの生活の平穏のため」とうそぶく倉田の話術の前では、完全に無力だった。
彼から呼び出しの電話がかかるのは、きまって翔太が仕事に出ている平日の昼間だった。最初のうち、彼らが落ち合う場所は工藤家の近くにある喫茶店だったり、会社の近くのファミリーレストランだったりしたが、倉田の「仕事の都合で、今日はここでないと会えないんだ」という都合のいい言葉により、密会の舞台はいつのまにか、都心のホテルのカフェや、彼のいきつけの高級バーや、赤坂の有名レストランへとすりかわっていった。
今日も咲希がメールで指定された場所に行ってみると、そこにはいつものように、倉田自慢のBMW『Z4ロードスター』が止まっていた。倉田はこのごろ、「打ち合わせ」の場所を事前に咲希に秘密にするようになっていた。待ち合わせ場所に行くと、倉田がBMWで現れる。あたりまえのように助手席に座る咲希。ドアが閉まり、倉田がアクセルを踏む。行く先は、いつも咲希がこれまでの人生で味わったことのないような、豪華絢爛たる「打ち合わせ場所」だ。彼女は倉田にエスコートされることで、自分がこれまで味わったことのないような優越感にひたっていることに驚きを感じていた。
倉田との密会は、いつしかデートそのものへと変貌していた。しかしそのことに、咲希は以前のような抵抗感を覚えないようになっていた。彼との打ち合わせでしばしば発覚する『新事実』は、つねに咲希の夫の情けない、軽蔑すべき面をつまびらかにしていったからだ。
「改ざんされた出張の領収書があるようだ。これは工藤君の筆跡じゃないか?」
「以前通勤電車内で痴漢の疑いをかけられたらしい」
「本当かどうかわからないが、工藤にいつも風俗に誘われて困っているという同僚の証言を取った」
…全てに「まだ確かな話ではないが」という前置きがあるにしろ、それらは咲希の夫に対する疑念を膨らませるに十分な「証拠」だった。倉田の話を聞けば聞くほど、彼女は以前のような夫の帰りを待ち焦がれる気持ちが色あせていくのを感じた。
ただ、咲希は倉田との密会にときめきを感じたり、倉田に魅力を感じたりすることはまだなかった。どんな疑念があるにしろ、あくまでも彼女は夫を愛している。彼女は自分たちのために倉田をうまく「利用」しようと思っていたし、まだ自分は倉田のことを制御できていると思っていた。
――倉田さんに美味しいランチをご馳走してもらって、翔太さんの失敗をもみ消してもらえるなら一石二鳥じゃない。
このとき、咲希は倉田とひそかに食事をすることをその程度に思っていた。そして彼女は何よりも、これまでの三年間隠され続けてきた夫の影の部分を妻としてきちんと知りたいと感じていた。翔太の誠実な言葉が本当なのか。倉田の言う、無様で欲望に忠実な、軽蔑すべき人格が夫の正体なのか。咲希はその間で揺れ動きながら、いつしか倉田からの連絡を心待ちにするようになっていった。
* * *
その日、倉田が咲希を連れて行ったのは日本でも五指に入る高級ホテルのレストランだった。いつも倉田に恥をかかせないよう精一杯のお洒落をして出かけている咲希だったが、そのレストランでランチを楽しむには、いつか誕生日に翔太がプレゼントしてくれた咲希のワンピースはいかにも地味すぎたし、その髪型はどこか見るものに主婦らしい生活感を感じさせた。
「ごめんなさい、あたしやっぱり倉田さんの行くお店にはつりあわないです…。ちょっと、さすがに恥ずかしいですよ。そろそろわたし、若さで勝負、って感じでもないですから」
咲希が目を伏せて恥ずかしそうに言うと、倉田は快活に笑った。
「そうかな。君がそう思うなら、ちょっときょうは僕の実験に付き合ってくれ。月並みな言葉で恐縮だが、ぼくは君が磨けば光るタイプだと思うよ」
倉田が軽口を叩いて「こっちへ来なさい」と歩いていったのは、そのホテルのショッピングフロアだった。カルティエやD&Gといったドメスティックブランドが立ち並ぶ中、倉田はある女性向けの高級ブランドショップに入ると、慣れた様子でその店の女性に服の注文をつけていった。咲希が断る間もなく、彼女は女性に言われるがままにフィッティングルームに連れて行かれ――そして、これ以上ないほど簡単に、『変身』した。
慣れないハイヒールによろめきながら出てきた咲希を見て、倉田はにっこりと笑った。
「ほら、言ったとおりだろ。工藤君は幸せものだよ。いつも僕の都合でこういうところにつき合わせてしまって、君にすまないと思っていたんだ。これからは、これで恥ずかしくないだろう?」
咲希は鏡に映る自分を見て、やわらかな高級品の肌触りを感じて、興奮していた。
――こんなに違うものなの?
彼女が着ているのは、シックなモノトーンのワンピースだった。いつも身に着けている服とは、生地からして全く違う。なめらかで、軽く、そしてきめ細かい。店の女性に宝飾品のようなベルトを締められ、同じブランドの鈍く光る黒のハイヒールを履くと、鏡の中には朝化粧を直したときとはくらべものにならないほど魅力的な女性が立っていた。
咲希の美しいウエストラインが強調され、そこから伸びる足はすらりと長く、妖艶に見える。御髪はアップにしたほうがいいですねと言って、女性は手早く髪型まで服にあわせてくれた。
彼女は大学時代、ブランド品ばかりを持っている同級生に対して感じた羨ましさとみじめさを思い出し、それがいま自分のものになりつつあることにどきどきしていた。「とてもよくお似合いです」と囁く女性の声を聞き逃すほどだった。
鏡に釘付けになっている彼女をよそに、倉田はさっさと会計をすませると、店を出て、既にすたすたとレストランに向かって歩いていた。咲希がとっさに「こんな素晴らしいもの頂くわけにいきません」と心にもない言葉を叫んだときには、全てが終わっていた。倉田のプラチナカードは、今度こそ咲希に魔法をかけた。
「申し訳ないが、今日は予定がつまっていてね。『どうしても受け取れません』とか、そういう面倒なことは言わないでくれるかな。もう払ってしまったし」と倉田は笑い、「まあ、私も君がきちんとした格好をしてくれないといろいろと外聞もあるのでね。気にしないで、帰って工藤くんに自慢してくれよ」と付け足した。咲希はほほを上気させ、黙ってうなずいた。『あなたの上司の倉田さんだけど、実はわたし彼に毎週のように高級なランチをご馳走してもらってるの。きょうはこんな服までそろえて貰ったのよ』――翔太にそんなことを話せるわけもなかったが。
――咲希はその日、翔太に貰った大事なワンピースをホテルに忘れていった。後日慌てて探しにいった彼女だったが、もうそれはフロアのどこを探しても見つからなかった。ブランド店で着替えた際、それまで着ていたワンピースは店の女性から倉田が密かに受け取って、さっさと処分していたのだが、彼女がそのことを知る由もなかった。
倉田が彼女に専用の携帯を渡したのもこのころだった。「万が一にも工藤くんにぼくが探っていることをばれたくない」「この端末で直接ぼくに連絡してくれれば、たとえ翔太くんがきみの携帯電話を盗み見たとしても大丈夫だ」と、咲希はかんたんに丸め込まれた。
この新しい携帯は、咲希の心をさらに縛る格好の道具になった。咲希は翔太にこの電話が見つかって問い詰められたらどうしよう、彼がいるときにこの電話が鳴ってしまったらどうしようと恐れるようになった。家にいるとき、翔太と一緒に過ごす時間は短くなり、翔太が早く寝入ってくれないかと、咲希はそればかり考えるようになったのだった。
* * *
翔太が帰宅した際、咲希は玄関に顔を出すことなく、そっけなく「おかえりなさい」とリビングから声をあげることが多くなった。食事は一応きちんとできているが、最近は出来合いのものが多くなってきた気がする。以前は翔太が帰るまで夕食をとらずにまっていた咲希も、このごろは「先に頂きましたから」と言ってさっさと寝室に引き上げてしまうことが増えた。
翔太は「最近、妻がぼくに冷たいのはなぜだろう」と自分の胸に聞いてみたが、全く心当たりはなかった。風俗に憧れてはいるものの決して行った事はなかったし、安い給料を趣味に無駄遣いしたことも、ギャンブルに浪費したことも、天地神明にかけてなかった。
釈然としない翔太だったが、もともと引っ込み思案な性格の彼は、妻に直接聞いてみることもできずに悶々と日々を送っていた。
ある日、翔太は玄関に見慣れない高級そうなハイヒールがあるのを見つけた。くたびれたコートを脱ぎながらリビングに入り、何気なく「あの靴、買ったの?」と咲希に聞いてみると、「あ…、あれ、ニセモノなの。コピー品。前に雑誌で見て、その、どうしてもそのブランドのくつ、ほしくって」と、どぎまぎした様子で答えが帰ってきた。彼は妻がブランドものに憧れていることを全く知らなかったし、コピー品でもいいから欲しくなるほどだったのかと衝撃を覚えた。
――ぼくの給料が安いばっかりに。
翔太は咲希を優しく抱きしめた。
「ごめんな、君にそういうものも買ってあげられなくって。冬のボーナスが出たら、クリスマスにはその靴の本物を買ってあげるよ。いつもぼくのことを大切にしてくれてありがとう」
咲希が自分の腕に抱かれながら、きょときょとと気まずそうに視線をそらすのに、愛の言葉を囁いている彼は、最後まで気づかなかった。
咲希は夫のボーナス程度ではこの靴をとても買うことができないとうっすらとわかっていたし、このきらびやかな靴がニセモノだと信じる夫の見る目のなさに嫌気がさしたし、自分がとっさに嘘をついたことにショックを覚えていた。彼女は夫に抱きすくめられながら、大きな罪悪感と少しの軽蔑を感じていた。
ありがとう、と夫に感動するふりをするのには苦労した。きまずさをごまかすため、涙が出たように装って「お化粧直してくるね」と部屋を出ようとした咲希だったが、夫にとつぜん
「ところで… なんか煙草みたいな香りがしない?」
と声をかけられて、ずきりと胸が痛んだ。こんなときだけ妙に勘の鋭い夫に、いまは面倒くささしか感じることはできなかった。咲希は「今日駅前で友達とお茶してたときに、隣にいたおじさんがたくさん煙草を吸っててたいへんだったの。ごめんなさい」と、また都合のいい嘘をついた。
嘘に、嘘が重なっていく。
倉田によって二人のあいだに出来た溝は、誰でもない咲希自身の手によって広げられていった。咲希は罪悪感から、さらに夫との壁を分厚いものにし、倉田との密会をさらに心待ちにするようになった。
(早く倉田さんから連絡が来ないかな)
(今度は六本木でイタリアンが食べたいな)
(翔太さんが帰ってくるから、夕方までに帰らないといけないのが面倒だわ)
(商社マンなのに残業もないなんて…結婚する前からわかってたけど、本当に翔太さんは仕事がだめな人だったんだわ)
(それに比べて倉田さんはいつもバリバリ仕事をしていて、かっこよかったな。会社にいたころ、倉田さんの誘いをどうして受けなかったのかしら)…。
咲希はとなりで寝息を立てる翔太に背を向けて、布団のなかにもぐりこんでかちかちと携帯電話をいじっていた。一面「倉田さん」しか存在しないメール画面と、着信履歴。それは、いまの彼女の心の内面を表しているかのようだった。
もうしばらく、夫とはセックスをしていない。いまはただ、倉田の吸っているセブンスターの匂いが懐かしかった。
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