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陽美~凛々しかった妻の変貌~【5】

最終更新:2010/07/16 21:47 │ ブログ記事 | コメント(0)

 博隆のもとにマンション住人からの苦情が舞い込むようになったのは、それからすぐのことだった。

 

「あの、304号室のご主人ですよね?とても言いづらいんですが・・・昼間の騒音、どうにかしていただけませんか?その、アノ声が筒抜けで・・・うちも小さな子がいるもので、どうも・・・」


「あ、藤堂さん?下の階の田幡ですけどぉ・・・おたくの奥さん、言いにくいけどありゃ浮気してるよ?アンタ知ってるの?真昼間っから若い男連れ込んでさァ・・・まあ他人様の家のことだからどうでもいいんだけど、ヤってる声がウチにまる聞こえなんだよね!なんとかしてくんないかなァ?」


「ああもしもし、藤堂さんですね?一階の管理室ですが・・・ごみ出しのことで各部屋からクレームが来てましてね・・・その、言いづらいモノがゴミ袋から透けて見えてると・・・いや、ご主人の目で見て頂かないとちょっとここでは、ハイ。それでそのぉ、できればですね。ああいうものはティッシュにくるんでいただくとか、そのね。若いご夫婦ですから、わかることはわかるんですけど。小さいお子さんのいる部屋の方もいらっしゃいますし、ほかのご家庭の手前、ひとつよろしくお願いしますよ・・・」


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 日曜日の午後。管理人からの妙な電話を受けてマンション住人の共同ゴミ捨て場に駆けつけた博隆は、そこにぽつんと取り残されたゴミ袋を目にして息をのんだ。ゴミ捨て場のそばで井戸端会議をしていた中年の主婦たちが博隆に気づいて、さっと散っていく。

「ほら、あれが藤堂さんよ。あのバカ女のダンナ。くすくす」
「ああ、あの人が・・・。話には聞いてたけど、気の毒ねえ」
「しっ、聞こえるわよ!」

 本人たちは声をひそめているつもりなのだろうが、それにしては大きすぎる主婦たちのざわめきが、嫌でも耳に飛び込んでくる。嘲笑するような声、気の毒がるような声・・・。しかし、博隆はそんなことにかまっていられる精神状態ではなかった。博隆が目を奪われている半透明のその袋には、あろうことか使用済みコンドームが内側にべったりと張り付き、白濁した液体に塗れているのが明らかに透けて見えていたからである。

 このマンションでは自治体指定のゴミ袋が月初めに有償配布されるきまりだが、その際に号室名が必ず袋の表面に記載されることになっていた。分別をせずにゴミ捨て場に出せばすぐにどの家庭のゴミかわかってしまうシステムには賛否両論があったが、問題はそこではない。汚物としか言いようのないモノがこびりついたこのゴミ袋には、間違いなく博隆の部屋番号が記載されていたのである。

 
 博隆は数瞬のあいだ狼狽していたが、我に返るとすぐに袋を引っつかんで自分の部屋へ引き返した。陽美とは、もう半年以上セックスをしていない。オナニーにコンドームを使う手合いがいると耳にしたことはあるが、自分にそんな趣味はない。博隆は混乱して、そんなことまで考えていた。もちろんそんなことを検証せずとも、このゴミ袋に入っているコンドームは、博隆が使用したもののはずがないのである。

「陽美は、昼間から男を家に連れ込んでいる」。

 信じたくなかった事実をこれ以上ないかたちで突きつけられ、博隆は頭がどうにかなりそうだった。さきほどの主婦たちの噂話のひとことひとことが蘇ってくる。

「バカ女」「いやらしい不倫女」「あれが藤堂さんよ、可哀想な旦那さん」―。

 エレベーターで一緒になった主婦は、博隆と顔を合わせるなり、気まずそうに目をそらした。自分たち夫婦のことがすでにこのマンション中の噂になっているということをあらためて認識して、博隆は戦慄した。自分が仕事に行っているあいだに、妻が何をしていたのか。この数ヶ月のあいだ間抜けな彼が見落としていた事実は、マンション住人のあいだではとっくのとうにゴシップとして知れ渡っていたのだった。

 

        * * *


 このエピソードからもわかるとおり、いまや陽美は全く浮気を博隆に隠そうとはしていなかった。むしろ、不貞行為をしていることをあからさまにすることで、博隆に効果的にショックを与えられるよう計算して行動しているふしさえあった。


 公然と淫蕩な行為に耽る妻。ほかの住人からのクレームや嘲笑。博隆はどんどんと精神的に追い詰められていったが、恐るべきことに、それでも彼は妻を一喝することはなかった。何者かの精液のこびりついたコンドーム、これ以上ない証拠を目の前にしても、彼は黙って妻に従い続けていたのだ。もちろんそれは陽美と離婚することを恐れていたためだけではなかったが、その理由についてはのちに詳しく述べたい。

 なんにしろ、藤堂夫婦の力関係の針は、既に陽美の側に完全に振り切れているといってよかった。いまの博隆にできるのは、ただしどろもどろになりながらマンション住人らのクレームを受け流し、心無い中傷や噂話には耳をふさぎ、すけべな格好をして夜の街に繰り出していく妻の背中を、あいまいな作り笑顔を浮かべて見送ることだけだったのだ。



「あ、きょ、今日はどこに遊びにいってくるの?夕食の準備をしようかなーって思うんだけど・・・」


 「ああ、いらないに決まってるじゃん。あんたのご飯なんか食べたいと思うわけ?それより金ちょーだいよ。友達とご飯食べてくるんだからさァ」


 「い、いくら必要なのかな?せっかくだから、ゆっくり美味しいものを食べてきなよ・・・」

 「ありがと♪じゃあ5万ね。友達がお金に困ってるみたいだから、おごってあげるんだ。あはははは!」


 「そ、そうなんだ。きょうは早く帰ってこれるのかな?」


 「あ、今夜は帰らないから。『友達』のとこに泊まってくるよ。もちろんいいよね?」


「も、もちろんだよ・・・そ、その友達によろしくね・・・?」


「プッ、はいはい。どんな友達か、聞かないんだ?うふふ」


「え、あの、いや・・・」

「じゃ、行ってくるから。ひなは適当にしといて。じゃあねー♪」


「あ、い、いってらっしゃい・・・」

 

バタン!

PLLLLLLLLLL

 

 「あっ、もしもしぃ?ルミだよお♪タカシぃー?・・・うんうん、いまから出るとこだよぉー。ああ、あのバカ?さっきまでアタシの前にいたしw うん、うん・・・あ、お金はだいじょぶだよ、タカシの言うとおり用意したからぁ♪ うん、マンションの前で待ってるね、アハハハ、あのクズ、なんかゆっくりしてこいとか言ってたよw マジ頭悪いし・・・うん、うん・・・キャハハ」

 


          * * *


 博隆がベランダに出ると、マンションの前に横付けにされたワンボックスカーに、ちょうど陽美が乗り込むところが見えた。ここのところ家のまわりでしばしば見かけるようになった、チンピラ仕様の4
WD。いつもと同じく、大音量のクラブミュージックに行きかう人々が眉をひそめている。そんな下品な車に、いまの陽美の格好はおどろくほど馴染んでいた。
 今日彼女が身につけているのは、胸の谷間を必要以上に強調する、セクシーというよりは下品な黒のワンピースだ。短すぎるそのスカートからは、海外のAV女優が身に着けるような原色のガーターストッキングがのぞいている。煙草を二本の指ではさみ、かかとが異常に長いピンヒールを履いてカツカツと歩くさまは、まるで本職の娼婦のようだった。
 スタイルの悪い女が身につければ嘲笑のまとにしかならないそんな格好が、しかし陽美にはよく似合っている。街ですれ違う男は誰もが視線を奪われ、にやにやと彼女のデカパイに見入ってしまうだろう。「うおっ、超でっけえオッパイ!」「パイズリしてもらいてえなあ~、頭悪そうだし、いくらでヤラしてくれっかなァ」そんな妄想を抱きながら。


 今日も陽美が持って出かけた、ブランドを殊更にアピールするモノグラム柄のハンドバッグ。その中には、自分と使う予定のないコンドームが大量に詰め込まれていることを、博隆はすでに知っている。全てがもう手遅れで、
もはや彼にはどうすることもできなかった。

 不貞行為を問い詰めれば、陽美は間違いなく自分との婚姻関係をあっさりと終わらせるだろう。そうすれば、家も身寄りもない自分は陽菜と二人、いや、恐らく一人でこのマンションを出て行かなくてはならない。日々のストレスでつかれきった自分には、陽美の不貞行為を主張し、裁判でまで争って親権を勝ち取ることなど、到底できるとは思えなかった。

 


「ぼくはこれから一生、陽美の『
ATM兼家政夫』として生きていくしかないのかもしれない・・・」


 

このごろ、博隆は本気でそう考えるようになっていた。彼は陽菜と一緒に暮らしていたかったし、なによりも、妻のことを今も心から愛していた。陽美のなかで自分への愛が尽きてしまったとしても、それでも彼女と離れたくはない。どんなに陽美が変わってしまっても、どんなに嫌われたとしても、そばにいたい。彼女に声をかけられるだけで幸せだと、彼は半ば本気で考えていた。



 もちろん、これは決して「無償の愛」などではない。2人のあいだに本当の愛があれば、このようなねじまがった家庭は生まれなかっただろう。


 彼にはもっと利己的な願望があった。彼自身も気付いていない、最低最悪な「願望」が。

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