「タカシ」という大学生が博隆の前に姿を現したのは、蝉の声もうるさくなってきた7月下旬のことだった。
平日は会社で激務に追われ、夜も放蕩生活を続ける妻のせいでリラックスできない日々が続く。日曜の午後、週末だというのにぐったりとソファに横になっていた博隆の耳を、間延びしたピンポンの音が不意に貫いた。
「はーい♪」
その日は珍しく家にいた陽美が、妙に甘ったるい声を出して玄関に向かう。週末は外に遊びに行って遅くまで帰らないか、家にいても不機嫌そうに煙草を吹かしているだけの陽美が、今日はへんに機嫌がよさそうだ。博隆がいぶかしんでいると、玄関から聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。
「お帰りなさぁい、外は暑かったでしょ~?新台入れ替えどうだったあ?」
「あー、全然クソイベントだったわ。全台設定5~6とか言ってたクセに、4万飲まれたし」
「今度またあたしも連れてってよぉ、もうずっとパチ行けてなくて、禁断症状出てきちゃった。くすっ」
「お前、一昨日連れてってやったばっかじゃんw 北斗に5万突っ込んで、もうやめるとか言ってたくせに」
ずかずかと玄関に上がりこんできたその男に、博隆は目を白黒させて見入った。根元が黒くなり、いわゆる「プリン」状態になっている軽薄な金髪。唇と鼻についた大きなピアス。肌は真っ黒に焼け、いかにもチンピラ風だ。20代前半の学生に見えるその男は、玄関に出てきたヒロを見るなり、いやらしい笑顔を浮かべて会釈した。
「ほらヒロ、あいさつして。あたしの今のカレだよ」
指にはごてごてとしたデザインのシルバーリング。ぼろぼろに破れたジーンズにぶらさがる、じゃらじゃらとしたクサリのようなアクセサリー。体格はよく、身長も博隆よりも10cmほど高かった。顔立ちこそそこそこ整っていたものの、その男が全身から醸し出す反社会的な雰囲気が、博隆を鼻白ませた。中学生のころ自分をいじめていた同級生のことを、どうしても思い浮かべてしまう。
「あんたが旦那さん?俺の彼女がいつも世話になってますw」
言葉をつむげないでいる博隆を前に、タカシはにやにやと笑いながらそう切り出した。トン、とカーペットの上に煙草の灰を落とす。あまりのことに、博隆はきょどきょどと2人の顔を見回した。
「あ、いや、君はどういう・・・」
「ヒロ!どうして挨拶できないの?タカシに失礼でしょ?」
「あ、は、初めまして・・・?と、藤堂です・・・が・・・」
「こちらこそ初めまして。よろしくな、ヒロ!・・・クッ、ハハハハ!」
しどろもどろになりながら返答した博隆に、タカシと妻は爆笑した。
「フフフフッ!ヒロ、よくできたわね。もう下がっていいわよ?」
「すげーなルミ、マジでよくキョーイクできてんね?超言いなりじゃん」
「でしょー?あ、タカシ、タバコ切れてたよね?こいつ、命令すればちゃんと買ってくるからさ。銘柄よく間違えるけどね」
「そうなんだw あ、じゃあ旦那さん、俺ピースのアコースティックね」
「くすっ、じゃああたしもそれにするー♪」
「え、あの・・・」
博隆はあいまいな作り笑いを浮かべ、自分にいきなり使い走りをしろと要求する男を見た。タカシはずかずかとリビングを歩き回り、肩に掛けていたショルダーバッグをソファの上に乱暴に放った。まるで、勝手知ったる我が家と言わんばかりの振る舞いだ。
「ヒロ!あたしのカレシに何回言わせるわけ?ホラ、早く行きなさいよ!」
突然のことにおろおろとしていた博隆は、陽美に急にシャツの肩口をつかまれた。ぐいぐいと引っ張られ、強引にマンションの廊下部分へと突き飛ばされる。財布とサンダルがぽいぽいと投げつけられて、ガチャリと鉄製のドアが閉まった。あわててドアノブを引いたが、ドアは分厚く、中の音は一切聞こえない。内側からチェーンロックが掛けられ、途中までしか開かないドアをガタガタとゆらすが、もちろんどうにかなるわけもなかった。わずかな隙間から、タカシを連れてリビングに入ろうとしている陽美の背中が見える。その腰に、あろうことかタカシが手を回している。まるで、親密な恋人同士のように。
「お、おいっ、どういうことだよ!?さっき彼氏って言ったのか?おい、陽美!?」
妻は面倒そうに振り返り、軽蔑したような視線を投げかける。
「ああ、まだいたの?あたしの分もタバコ買ってきてね」
「俺らのピース、アコースティックってやつだから。見つかるまで帰ってこないでね?わかった、ヒロ?」
あはははははっ!嘲笑が浴びせられ、ふたりはリビングへと消えていった。
その間際、ぶちゅぶちゅと2人が舌をからませる下品なキスを交わしたのを目撃して、博隆はがっくりと肩を落とした。
過ぎ去った時間は、彼に優しくはなかった。妻の放蕩に見て見ぬふりをし、漫然と過ごしたその時間こそが、この最悪な結果をもたらしたのだ。しかし、実はこの状況は自分の望んだ結末だということに、博隆はまだ自覚を持てないでいた。
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