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陽美~凛々しかった妻の変貌~【12】

最終更新:2010/08/15 21:03 │ ブログ記事 | コメント(0)
 藤堂陽美のもとに初めてその封筒が届いたのは、暑い夏の盛りのことだった。テレビはじりじりと焼け付いた街頭のアスファルトを映し出し、女性のアナウンサーがどこそこで今年の最高気温を更新しました、外出の際は熱中症に気をつけてと他人事のように話している。


 お盆が近いが、夫の博隆は休みを取ることなく毎日仕事に出掛けている。陽美はその日も、マンションで忙しく陽菜の世話をしていた。

ハニカム  ハニカム



『ピンポーン』

 


 なかなか泣き止まなかった陽菜がようやく寝入ったときにインターホンがけたたましく鳴ったので、陽美はつい舌打ちをしてしまった。最近、育児ストレスで精神的に不安定になっているのを実感する。彼女は結婚する直前まで総合職として都内の大手会社に勤務していたが、あたりまえながら、出産や育児には全くそうしたキャリアなど通用しないということを思い知ってしまう。大学で学んだことも、海外留学で経験したことも、社会に出てからの手練手管も、目の前で泣きわめく陽菜の前では全く関係がなかった。陽菜を愛する気持ちはもちろんいつも変わらないが、まったく理屈が通用せず、突然理由もなく騒いだり熱を出したりする娘を、最近陽美は持てあまし気味にしていた。

 

「はい、藤堂です。・・・もしもし?」

 

 インターホンを取ったが、応答がない。モニターに映し出された1階の共同玄関には誰の姿も写っていなかった。となると、共同玄関ではなくこの部屋の玄関のボタンが直接押されたということだ。

 

(お隣の奥さんかしら?)

 

陽美は訝りながら玄関を開けてみたが、そこにも誰もいなかった。「ピンポンダッシュ」という子どもの古いいたずらを思い出して、陽美は「まさかね」と独りごちた。陽美が独身時代に購入したその分譲マンションは、立地も日当たりもよく、比較的ハイソな住民が揃っている。そんな昭和じみたいたずらをする子どもがいるとは思えなかった。

 

「・・・あら?」

 

 部屋に戻ろうとした陽美の足に、かさりと音をたてて何かがあたった。視線をやると、足下に落ちていたそれは大して厚みがなく、何の変哲もないA4サイズの茶封筒だった。定規で引いたような不自然な字で「トウドウサマ」と書かれているのを発見し、拾い上げて表、裏と確認するが、差し出し人の記載はない。直感的に嫌な予感がした陽美だったが、その感覚はすぐに的中することになった。

 

 

 

 リビングに戻って封筒を開けてみると、中に入っていたのは、薄い紙1枚だけだった。A4のコピー用紙に、明朝体ででかでかと「あなタの旦那ハ浮気をしていル」とレタリングされている。まるで昔の刑事ドラマに出てくる、新聞の切り抜きで作った脅迫文だ。いかにもワードで適当に作ったとしか思えないその文章の下には、これまた大写しになった一枚の写真がプリントされていた。家庭用のプリンターで写真を印刷したときにありがちな、ガタガタの横線の入った不鮮明な写真。しかし、そこに写っているのはまぎれもなく、陽美の夫・博隆に違いなかった。

 

放置されていた陽菜が目を覚まし、火が付いたように泣き出した。しかし、陽美はいつものように駆け寄ることをせず、その怪文書を持って呆然と何かをつぶやいている。博隆と見知らぬ若い女性がラブホテルから出てくるその写真を穴が開くほど見つめながら、陽美はこれまでにない動揺を覚えていた。

 

 

                                          * * *

 

 簡潔に書けば、それから陽美のもとに届いたその怪文書は、全部で12通に及んだ。夫が逢い引きをしたと思われるラブホテルの住所が書かれたものもあれば、今となっては珍しいMDのディスクが入ったものもあった。夫が昔使っていたポータブルプレイヤーを引っ張り出して再生してみると、ガチャガチャとうるさい雑音のあとに、夫と誰かの会話が録音されているのがわかった。食器のこすれあう音がするので、きっとどこかのレストランでの会話だろうと陽美は想像した。

 

「妻は最近ヒステリックで困るよ。帰ってもキーキーうるさくてさ」


 「今日はどこに行こっか、実はここのホテルの部屋もおさえてあるんだよね」

 「今夜も泊まりは大丈夫だよ、今回のプロジェクトで残業って言えば妻も納得するから。だって自分も昔は社員だったわけだしね」

 



 へらへらと笑う夫の声。陽美は深く静かに怒りを増幅させた。そのMDにはほとんど会話相手の言葉は録音されていなかったが、最後に一言だけ若い女性の甘ったるい声を聞くことができた。

 

「奥さんのストレスはぜーんぶあたしにぶつけていいからね。今夜もいっぱいお口でかわいがってあげるから」

 

壁に投げつけられたMDプレイヤーはそれきり何もしゃべらなくなったので、ゴミ箱に放り込んでおいた。それで博隆が何か感づこうと、もうどうでもいいと陽美は思っていた。陽菜が居間で泣いている。ベビーカーでわめく博隆似の娘の顔を見下ろしながら、陽美は曰く言い難い思いを抱えて、拳を握りしめていた。

 

 

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