陽美が夫の前で怒りを爆発させるのに、それほど時を必要としなかった。聡明な彼女はすぐに自分のするべき次のステップを考えていたし、その「手続き」に必要なことはすべて頭に浮かべることができた。
怪文書に添付された証拠で十分だが、信用のできる興信所で夫の有責の裏付けも進めよう。学生時代のつてを使えば、優秀な弁護士を雇うのはかんたんだ。浮気相手の小娘に接触して、味方につけるのも手かもしれない。しかし、彼女はそうした手続きに踏み切る前に、ある一つの決断をしなければならなかった。
浮気をした夫を切るのか。
それとも再構築の道を探るのか。
そして、陽菜をどうするか。
その決断をしなければ、陽美はもう一歩も先に進めなくなっていた。愛憎入り交じった思いが、彼女を苦しめた。
いくら考えても答えは出なかった。妻としてこれ以上ない屈辱を与えられ、主婦にまでなって尽くしている自分の人生を台無しにされたという思いは強い。復職して「もとのレール」に戻りたいという気持ちももちろんある。もうすぐ3歳になる陽美の存在はもう「リセット」できないという非情な考えすら、頭に浮かんだ。苦労して産んだ陽菜のことはどんなことがあっても可愛いと感じていたが、いまは博隆の面影を娘の顔に見るたび、陽美は心臓がうごめくようなストレスと怒りを感じてしまうのだった。
けっきょく全ての「手続き」を済ませ、集めた証拠をたたきつけて夫を問い詰めたあとも、彼女の気持ちは定まることがなかった。夫はへらへらと笑ってケーキやらなにやらを買って帰り、毎日許してくれないかと懇願するが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。陽菜の育児も、夫をどうするかも、仕事に復職するかどうかも、何もかも考えたくなかった。
夫には体を見られることすらも汚らわしいと感じるようになった。陽菜が泣くだけで、どうしてもいらつきを押さえられなくなってしまう。マンションにいるだけで、彼女の心は乱され、過呼吸のような症状を起こしてしまう。いつからか、陽美は夫が帰るころになると、家族から逃げるように家を飛び出し、ふらふらと夜の街をうろつくようになった。
* * *
陽美は海外留学をしていたころから、ある一つの悪癖を持っていた。万引きである。言葉がうまく通じず、異文化のなかで暮らさねばならない強いストレスから逃れるため、滞在先の近くのスーパーで衝動的に犯してしまった万引き。彼女は日本に帰ってからもその悪癖から逃れられず、いつしか強いストレスを感じるたびにその犯罪を犯してしまうようになっていた。
月に何度も繰り返すような「常習犯」でこそなかったが、就職、昇進、結婚と人生の節目で大きなストレスを感じるたび、彼女は菓子やリップクリームなど1000円もしないようなものを盗んでは、その心を慰めていた。社会や世俗にはまっている自分、レールの上を走り続ける自分を、どこか反社会的世界に解放したいという気持ちがあったのかもしれないが、理由は彼女にもよくわからなかった。ともあれ、その悪癖がきっかけとなり、陽美は隆という大学生に出会うことになる。
「お姉さん、バッグにいま何か入れたでしょ」
繁華街にある量販店の一角。何食わぬ顔で化粧品をバッグに入れて立ち去ろうとした陽美は、そう背後から声をかけられてびくりと足を止めた。時間が一瞬止まったようにすら感じる。
「店員に気付かれた?」一瞬そうおびえた彼女の右肩に突然、なれなれしく男の手が回り込んだ。
「お姉さん、下手だね。あんまやったことないでしょ」
驚いて顔を見ると、男は店員ではなかった。脱色した金髪がのぞく、黒いニットキャップ。耳にはちゃらちゃらとしたピアスがいくつも開いている。渋谷のセンター街に行けば一山いくらで買えそうな、軽薄な大学生だった。ただ「眼力」というのか、キャップからのぞくやや色素の薄いその目がどこかひきつけるものがあって、彼女は男から目を離せなくなってしまった。
男の手を振り切って逃げようとした陽美だったが、「ちょっと待ちなよ」と押しとどめられた。金髪はまるで恋人のように陽美の肩を抱いて、耳元でささやいている。その声が意外に優しいのに、彼女は戸惑いを覚えた。
金髪はきょろきょろと回りを見回すと、「ついてきて」と言って歩き出した。そのあいだに逃げることもできたが、陽美はついその背中を追ってしまう。別に、店員や警察に突き出されてもよかった。自分はあのマンションに帰りたくないだけなのだ。夢遊病者のようなうつろな表情で、陽美は金髪の数歩あとを歩いていく。
金髪は店内を回り、持っていた買い物かごに商品をぽいぽいと入れていった。電化製品やゲームソフト、缶ビールの6缶パック。突然彼は陽美を振り向いて「お姉さん、何が欲しいの?」と聞いた。特に欲しいものもなかったので陽美が黙っていると、じゃあこれでいいっしょ、と言ってストッキングや香水を大量にかごに放り込んだ。
そのまま入り口にすたすたと歩いていくので、なんだ普通に購入するのかと思っていると、金髪はそのかごを量販店の入り口に無造作に置いた。そのままかごを放置して、彼は平然と路上へ出て行ってしまう。
あわててあとを追った陽美は、よっこらしょと道ばたのガードレールに座った金髪に「あのかご、どうするの?」と聞いた。てっきり、かごを持ったまま無理やり入り口を突破するのかと思ってどきどきしていたのに。いままで話したことのない人種との会話に、陽美はすこしテンションが上がっているのを感じた。
「え、ギるよ?あたりまえでしょ」
「ぎる?」
「盗るってこと。うちらは『かごダッシュ』って言うけど」
ははっ、と金髪は笑った。
「かごダッシュ・・・」
「そこのさ、角にワンボックスが停まってるでしょ。これ鍵だから、先に乗っててよ。運転はできる?」
こくりとうなずくと、金髪はきれいな歯並びを見せて笑った。
「よかった。じゃ、俺が駆け込んだらすぐ発車させてね。赤でひっかからないように頼むよ」
結論から言えば、彼のいうところの「カゴダッシュ」は見事に成功した。陽美が言われるがままに運転席に座って量販店を見ていると、金髪はすっと店内に入ったかと思いきや、すぐに先ほど置いてきたかごを抱えて走ってきた。慌ててエンジンをかけ、金髪が車内に飛び込んできた瞬間に発進させる。
店内に入った瞬間、あらかじめブザーの鳴らないような位置にセットした商品かごを盗んでくるというその単純な手口に、陽美は感心した。これならば店内のカメラにも映らず、店員にマークされることも少ないだろう。大学の講義でならった「困難の分割」という言葉を思い出す。
金髪の指示に従って車道を右、左と曲がりながら、陽美は「間違いなく窃盗の共犯になるな、でも初犯だし実刑もないし」とどこか冷静な頭で考えていた。車は奇跡的に青信号ばかりで交差点をすり抜けていく。心臓が躍るようにどきどきして、収まらなかった。金髪はなんでもないような様子で音楽プレイヤーを再生させ、大音量で流れるダンスミュージックに合わせて気分よさそうにシャウトしていた。胸がどきどきしているのが犯罪行為に手を染めてしまったことからなのか、それともこの不思議な不良青年に惹かれ始めているからなのか、陽美は判断がつきかねていた。
- 関連記事
-