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【第11章】工藤咲希の幸せ

最終更新:2009/11/23 20:56 │ 【小説】工藤夫婦の堕落 | コメント(0)

【第11章】工藤咲希の幸せ

 

 工藤咲希は、夫に料理を褒めてもらうことがささやかな幸せだと感じる、どこにでもいる普通の妻だった。

  咲希が翔太のプロポーズに応じ、新婚生活が始まってから3年の歳月が経っていた。その間、咲希の退職、念願のマイホーム購入、引越しなど、様々なことが二人の人生を通り過ぎていったが、彼女にとってはあっというまの3年間だった。翔太は結婚しても変わらず咲希のことを大切にしたし、咲希は営業の仕事でくたくたになって帰ってくる夫をいつでも暖かく迎え、夫が落ち込んでいるときにはとくに腕によりをかけて美味しい夕食をこしらえた。学生のころから阿吽の呼吸で付き合ってきた二人がけんかをすることはめったになかったし、結婚したことでその絆はさらに深まったといってよかった。咲希は自分たちのことをごく普通の夫婦だと思っていたが、同時にそうした「普通の生活」こそが世界中で何にも代え難い喜びなのだと、彼女は翔太とのおだやかな生活を通じてしみじみと噛みしめていた。

 



ハニカム  ハニカム

 正直なところ、工藤家の家計には余裕があるとは言えなかった。もともと咲希はあまり裕福でない家の生まれで、奨学金で大学を出たはいいものの、今もその返済が重くのしかかっていたし、大黒柱たる翔太の稼ぎも決していいとは言えなかった。何よりも負担になっていたのは、ついこの間買ったばかりの建て売り住宅のローンだった。翔太の会社は名前を聞けば誰もが「ああ、あの」と言うような東証一部上場の一流企業だったが、給与体系にはノルマの達成率などによってボーナスの多寡が決まる、完全実力主義を採用していた。咲希が知る由もなかったが、営業が向いているとはとても言えない翔太の収入は、彼の会社ではおよそ最低水準のものといってよかったのだ。


  咲希は昔からあまりぜいたくな生活を味わったことがなく、ブランド品の服や装飾品を身に着けたことなどほとんどない質素な女性だった。大学のキャンパスで、グッチやルイ・ヴィトンといったブランド品を見せびらかし、青春を謳歌している同期の女性たちに強く憧れることもあったが、彼女がそれらの高級品を手に入れる日はついに来なかった。

 

 翔太と結婚しても、おそらくはそうした質素な生活が劇的に変わることはないだろうと咲希は知っていたが、そのことは彼女に結婚を思いとどまらせる理由には一切ならなかった。高校のころから口下手でお人好しの夫が、営業として大成することはないだろうと彼女は最初から知っていたし――そのことも織り込み済みで、彼女は翔太を、生涯の伴侶として選んだのだった。


 咲希は自分が最も苦しいとき、いつも支えてくれた翔太への感謝を忘れたことはなかった。
 

(家計が苦しいならパートでもなんでもやる。お金を貯めて、いつか翔太さんとのあいだに子供が欲しい。翔太さんと一緒に、幸せになりたい)

 

 

 咲希はいつもそう思い、翔太との結婚生活の行く末にこそ自分の幸せがあると信じてきたのだった。

 

* * *


 ある日の深夜。

 

 

 夫が帰宅する際、普段は鳴らすはずのないインターホンの音がリビングに響いたとき、咲希は何か嫌な予感がするのを感じた。


――はい、どちらさまでしょうか?

――夜分遅く大変失礼します、○○商事の倉田と申します。

――(…倉田さん!?)


――課の飲み会で工藤君がずいぶん酔っぱらってしまったみたいで、送ってきたんですが…もしかしてその声は、加納さんかな?


 悪い予感はあっというまに当たった。


 退社すればもう顔を合わせることはないだろうと思っていたかつての上司・倉田修一。酔いつぶれて正体をなくした夫とともに、彼が突然ふたりの家を訪ねてきたのだ。倉田はセクハラやパワハラといった破廉恥な行為こそしなかったが、当時あの手この手で咲希にしつこくアプローチし、まだ新人だった彼女を困らせた上司だ。翔太のいる営業三課に転属してきたと知ってはいたが、インターホンのむこうで3年ぶりに聞く上司の声が響いたとき、咲希は少なからず驚いた。

 「…やあ、やっぱり加納さんだ。失礼、もう工藤さんになったんだったね。結婚式以来かな?本当に久しぶりですね」

 鷹のように鋭い目つきと、がっしりとした体にまとった高級なスーツ。ぐったりとした翔太に肩をかしながら、倉田は依然と変わらない快活さで、玄関に現れた咲希に笑いかけた。咲希は倉田の突然の来訪に動揺したものの、現在の夫の上司をむげに追い返すわけにもいかない。咲希はていねいに倉田に礼を尽くし、完全に正体をなくしている夫をふたりで寝室に運んでから、「温かい飲み物をいれますから、ぜひゆっくりしていらしてください」と、倉田をリビングに招いた。

 

 


――昔から主人はお酒がだめで、恥ずかしいです。倉田さん、送って頂いてほんとにありがとうございました。明日の朝には回復しているといいんですけど・・・

 

 

 熱いコーヒーを煎れて倉田をもてなす咲希。本当にお久しぶりですね、と談笑を交わすその笑顔には、しかしやはり不自然さがあった。

 

 咲希は会社にいたころからずっと、倉田のことが苦手だった。あえて理由をつけるなら、彼女はヘビースモーカーの倉田が漂わせる煙草の香りが嫌いだったが・・・彼はいつも誰に対しても紳士的だったし、仕事面でもみんなの尊敬を一身に集めるエースだったから、咲希はどうして自分が倉田に警戒心を覚えてしまうのか、正直なところ自分でもよくわからなかった。女としての直感と言ってしまえばそれまでだが、「この人には何かウラがある」と感じていた咲希は、入社当時から彼のことをどこか信用していなかった。

 咲希の姓がまだ「加納」だったころ、倉田はことあるごとに咲希を夕食や、社のレクリエーションや、休日のドライブに誘った。そのことも、彼女に倉田を敬遠させる大きな要因になっていた。倉田が社交辞令として誘っていたのか、それとも本気で咲希に交際を迫ろうとしていたのか、当時はわからなかったが・・・咲希は結局最後まで、その誘いに応じることをしなかった。上司の誘いを断り続けるのがつらいとこぼした咲希に、翔太は「それなら会社なんかやめればいいよ」と言って、ぎこちないプロポーズをしてくれたのだった。

 

 

 倉田はしばらくの間、翔太の会社での様子や共通の同僚の話などをして咲希と談笑していたが、ふたりがそれぞれのコーヒーを飲み終わるころ、ふと真剣な顔立ちになり、おもむろに話を切り出した。

 

 

 ――ところで、ご主人だけど・・・経理にいる友人から、まずい話を耳にしてね。何か彼から、そう、『領収証をごまかした』とか、『うまく経理をだましてやった』とか――そんな話を聞いたことはないか?


 

 突然倉田が話し出した不穏な話題に、咲希はどきりとした。

 倉田の話によると、夫は営業成績が同期の中でも最低で、次の異動で地方に飛ばされることが既にほとんど決定しているとのことだった。一度行けば、おそらく本社に帰ってくるのは難しい。険しい表情の倉田に、咲希は背筋が凍り付くのを感じた。この家はまだ買ったばかりだ、これからローンをどうやって払っていったらいいのか。新天地に飛ばされたら、私たち二人の生活はどうなる?

 

 しかし、倉田が懸念しているのはそのことではなかった。倉田の話では、翔太はなにやら領収証の表記をごまかすようなことをして、会社のお金に手をつけているような疑いをかけられているというのだ。あの小心な夫に限ってそんなことがあるわけない、と咲希は笑いとばそうとしたが、倉田は額にしわを寄せて、「確かな話なんだ」と言ったきり、黙りこんでしまった。

 咲希は今まで感じたことのないような不安感に襲われ、倉田を問い詰めた。夫は何をしたんですか。会社にばれたら大変なことになるようなことなんですか。倉田はどの質問にも答えなかったが、「異動については、僕も望むことではないからなんとかしよう。問題なのは使い込みだ。彼は外回りだから、会社が行動を把握できていないところも多いんだ。幸い、総務部はウラを取ったわけではないようだ。僕の方で手配して、少し調べてみるよ」と話した。

 

――かつての部下と、今の部下のカップルだ。しかも家を買ったばかりとあっちゃあ、力をふるわないわけにはいかないな。

 

倉田はいかにも頼もしい笑顔を咲希に見せると、軽快な動作で立ち上がった。

 

「君は彼のパソコンを調べてみてくれ。精算に使ったエクセルのファイルとか、インターネットの履歴とか・・・何か使い込みの証拠が残っているかもしれない。僕は、友人のつてをたどってなんとかしてみるから」

 

 そう言い残して、倉田はあっさりと工藤家を辞した。

 


              * * *

 

 

 咲希は、自分たちのことをごく普通の夫婦だと思っていた。普通の夫婦こそが、一番幸せなんだと信じていた。いま、咲希はその「普通」が壊れる恐怖に心底おびえている。家を買って、子供ができて、家族みんなで少しずつ年をとっていく。それができなくなるかもしれないという、暗い恐怖だ。

 

 「会社の人間より先に、彼の不正の証拠をつかんでくれ。そのやり方や用途さえわかったら、あとは僕の力でなんとかもみ消してみるから。これは彼のことをよく知り、大切にしている加納君にしか出来ないことだ。何か分かったらこの携帯番号に電話してくれ」

 

 いまは、倉田の言葉だけが頼りだった。咲希は夫が寝息を立てている夫婦の寝室に入らず、足音をひそめて夫の仕事部屋に向かった。何か、少しでも使い込みの証拠があれば。いや違う、夫がそんな後ろ暗いことをしていないという証拠を探すのだ。工藤家の幸せを、わたしが守るんだ。

 

咲希はそう自分に言い聞かせながら、夫のパソコンの中をのぞく後ろめたさを、必死に誤魔化していた。


 

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