自分のすみかであるはずのマンションを、あっさりと他人に追い出された博隆。彼の足は、無意識のうちに最寄りのコンビニへと向かっていた。顔を伏して、とぼとぼとマンション前の坂を下っていく。いくら忘れようとしても、妻と見知らぬ男がいちゃいちゃと舌を絡めているシーンが、どうしても頭をちらついて離れなかった。
あんなガラの悪くて軽薄そうな男に、どうして陽美がだまされてしまったのか。タカシという男の鼻にくっついていた下品なピアスを思い出し、博隆はさらに不快な気分になった。
「タカシ」という大学生が博隆の前に姿を現したのは、蝉の声もうるさくなってきた7月下旬のことだった。
平日は会社で激務に追われ、夜も放蕩生活を続ける妻のせいでリラックスできない日々が続く。日曜の午後、週末だというのにぐったりとソファに横になっていた博隆の耳を、間延びしたピンポンの音が不意に貫いた。
博隆のもとにマンション住人からの苦情が舞い込むようになったのは、それからすぐのことだった。
「あの、304号室のご主人ですよね?とても言いづらいんですが・・・昼間の騒音、どうにかしていただけませんか?その、アノ声が筒抜けで・・・うちも小さな子がいるもので、どうも・・・」
「あ、藤堂さん?下の階の田幡ですけどぉ・・・おたくの奥さん、言いにくいけどありゃ浮気してるよ?アンタ知ってるの?真昼間っから若い男連れ込んでさァ・・・まあ他人様の家のことだからどうでもいいんだけど、ヤってる声がウチにまる聞こえなんだよね!なんとかしてくんないかなァ?」
「ああもしもし、藤堂さんですね?一階の管理室ですが・・・ごみ出しのことで各部屋からクレームが来てましてね・・・その、言いづらいモノがゴミ袋から透けて見えてると・・・いや、ご主人の目で見て頂かないとちょっとここでは、ハイ。それでそのぉ、できればですね。ああいうものはティッシュにくるんでいただくとか、そのね。若いご夫婦ですから、わかることはわかるんですけど。小さいお子さんのいる部屋の方もいらっしゃいますし、ほかのご家庭の手前、ひとつよろしくお願いしますよ・・・」
博隆が躊躇しているのをいいことに、陽美の変貌はどんどんエスカレートしていった。服装もそうだが、ここ最近の一番の変化は、家で煙草を吸うようになったことである。それまで決して手に取ることもなく、臭いもたいそう嫌っていたはずの煙草を、彼女はいつのまにか毎日のように口にするようになった。それも半端な量ではない。彼女はもう家にあまり寄りつかなくなっていたものの、少なくとも博隆がそばにいる間は四六時中、ぷかぷかと紫煙をくゆらせているのである。
一本吸って、消して、また火をつける。現在の彼女は、完全なチェーンスモーカーと言ってよかった。陽菜のすぐ側でも平気で煙草に火を付けるので、博隆は彼女が家にいるあいだは、黙って陽菜を部屋から連れ出すようになった。陽菜は数日前に3歳の誕生日を迎えたが、こんな状態では家族でそれを祝えるわけもなかった。陽美は愛娘の人生3度目の誕生日も、いつもと変わらず夜遅くまで飲み歩いている様子だった。博隆との会話も、必要最低限のものばかり。
陽美が離婚を求めたあの夜から、もう4ヶ月が経過していた。
「離婚してください」
自宅のリビングで、記入済みの離婚届を前にした陽美にそう告げられるまで、博隆は興信所に尾行されていたことに全く気づいていなかった。さきほどまでそ知らぬ顔で美香との逢瀬を楽しんでいた博隆は、あっけに取られた顔で妻の顔を見つめる。陽美は茶封筒に入った十数枚の写真をテーブルにぶちまけると、ぽろぽろと涙をこぼして嗚咽した。その全てに、ラブホテルに美香と腕を組んで出入りする自分の間抜け面が写っていることに気づいた博隆は、全身の血がさあっと引いていくのを他人事のように感じていた。
博隆の妻・陽美は、もともと彼の上司にあたる女性だった。結婚を期に会社を退職し、現在は専業主婦の身だが、会社で総合職として働いていたころの陽美は、その美しさと優秀さで社内でも有名な才媛だった。
つややかなストレートヘアーに、意志の強そうなととのった目鼻立ち。男の目を引くFカップの巨乳とは裏腹に、とてもスマートで日本人離れしたボディライン。見た目だけではなく、積極的な性格ときめ細やかな仕事でめきめきと成績を伸ばす陽美は、入社数年で社内でも名の知れたキャリアウーマンになっていた。博隆とは入社年次がたった数年しか違わないにもかかわらず、彼のOJTを一任されることになったのも、彼女の優秀さの証と言って良いだろう。
見慣れた街の風景が、列車の窓の外を右から左へと流れてゆく。視界に入っては消えていく無数の家々の明かり。この沢山の光のなかに、我が家ほど壊れきった家庭など存在するのだろうか。藤堂博隆(とうどうひろたか)はそんなことを考えながら、今日も陰鬱な表情で会社帰りの列車に揺られていた。